ビジネスマンは「世界史」の教養を
新潮社「フォーサイト」1995年8月号掲載
デフレ不況が取りざたされる中で、相変らず好調なのが海外旅行である。今年は円高の追い風もあり、回りを見渡しても、やれマレーシアだ、カリフォルニアだと、夏休みを利用して海外旅行する連中は枚挙に暇がない。バーゲンハントで簡単にドーバー海峡を渡ったりする欧米諸国を例外にすれば、世界で日本人ほど気軽に外国に出かける民族はないだろう。
残念なのは、渡航回数の多さにもかかわらず、外国への理解が一向に深まらないことだ。率直に言って、これほど外国の国情に無頓着な民族は珍しいのではないか。
身内のジャーナリズムの世界で最近、大変恥ずべき事件が起きた。韓国の百貨店ビル崩壊の取材を巡る、日本のテレビクルーと現地の人々の摩擦である。韓国の人が日本人カメラマンに暴力をふるったためか、一部には「韓国の反日ぶり」を強調するような報道もあったが、これは明らかに日本側に非がある。
テレビのワイドショーなどの取材は、日本の中にいてすら傍若無人ぶりにハラハラする。それと同じことを、ビルが崩壊し、中にまだ人が生き埋めになっている現場でやってしまったのだ。しかも、急場の取材とあって、日本から駆けつけたのはほとんど韓国語が話せない人間ばかりだった。
地中にはまだ生存者がいる。現場では近代的なビルがもろくも崩れている。そして、日本人が日本語で、我がもの顔にこの国辱的な光景をテレビに映そうとしている――これで怒らない韓国人がいたら不思議である。
今年は日本の「戦後五十年」にあたる。だが、他の国にとっても第二次大戦後五十年だという単純な事実が、意外に日本人の意識から抜け落ちている。
それぞれの国にとって五十年の意味は異なる。韓国にとっては日本の植民地統治からの「解放五十年」になる。韓国政府はこの八月十五日を期して、日本統治の象徴だった壮麗な旧朝鮮総督府の解体に着手する。そんな時にワイドショー的な取材をすれば、猛反発を受けるのは当然だろう。
知られない「親日の世界史」
歴史的な反日の根は韓国だけではない。日本からの観光客が年間百万人を超す香港では、毎年八月十五日近辺になると、日本総領事館にあてて日本の中国侵略への補償や「日本帝国主義」復活への懸念を表明した文書が地元民から出されている。日本企業誘致に熱心なシンガポールの観光地、セントーサにある博物館の一角には日本占領時の残虐行為を示す展示があり、地元の小中学生の見学コースになっている。
第二次大戦で直接戦火を交えた米、英やオーストラリアはもちろん、日本軍が侵略した多くの地域で反日の根はまだ途絶えていない。この「反日の世界史」に鈍感な日本人が多すぎる。
それでも、まだ反日の歴史は知られてはいる方だ。反日の一方で、「親日の世界史」が存在するのだが、こちらはほとんど認識されていない。日本人、そして日本企業は「反日」に無頓着な一方で、「親日」には無知だった。
日本企業のトップが海外を回って、ほぼ例外なく行った先のファンになって帰ってくる国・地域がある。欧州のフィンランド、中東のトルコ、アジアのミャンマーと台湾、中南米のペルーやブラジルだ。
フィンランドには「トーゴー」というブランドのビールがある。これは日露戦争の英雄である東郷平八郎提督から取ったもので、瓶には提督の似顔絵が付いている。ロシア、そして旧ソ連と国境を接してきたフィンランドの歴史は、いかにして東の大国の侵略を防ぎ、独立を維持するかの一点にかかっていた。同国にとって海の脅威だったバルチック艦隊を壊滅させた東郷大将は、彼らにもヒーローだったのだ。
親日の歴史には三つの根がある。
第一の根は「明治維新(非西洋による近代化モデル)」と「日露戦争(白人帝国への勝利)」の二点から来る。世界地図を広げて、ロシア、旧ソ連と国境を接する諸国を見ていくと、ほとんどが親日国だ。フィンランド、ポーランド、黒海を挟むトルコ、そしてモンゴル。ソ連崩壊で誕生したカザフスタンなど中央アジア諸国も親日度が高い。
世界史を繙いても、白人による帝国主義的侵略を打ち破った例は日本以外には顕著な例がほとんどない。東アジア諸国などの近代化には明らかに日本が一定のモデルになっている。明治維新と日露戦争は依然、日本のイメージにとってプラスのカードである。
第二の根は「勤勉で真面目な日本人」である。日本人は第二次大戦後に大量の移民を送りだしたが、彼らが根付いたブラジル、ペルーなどラテンアメリカ諸国などは大半が親日だ。ペルーでフジモリ氏が大統領にまでなったように、日系人への敬意が親日につながっている。
この流れは、最近の日本企業の海外進出でも同じだ。日本と摩擦の絶えない米国でも、トヨタの進出したケンタッキー、ホンダのオハイオなど地方の草の根ベースでは、対日感情はずっと良好である。
第三の根が「占領による近代化への貢献」だ。日本は第二次大戦でアジアの広範な地域を占領した。その間の制度改革やインフラ整備などによって、その地域の近代化のきっかけになったケースが意外と多い。
外国による占領が即、その国への悪いイメージにつながらないのは終戦後の日本での「進駐軍」が典型だろう。米国は農地改革など日本の近代化に道を開き、さらに様々な援助を与えた。
台湾と韓国の戦後の経済発展は、日本統治が残した産業基盤抜きには考えられない。植民政策の愚劣さから日本は韓国では大量の反日層を作りだした。だが、台湾では、もともとが中国の辺境だったことや、その後に大陸から渡ってきた国民党によって再び統治≠ウれたとの経緯から、親日の根が広範に残っている。実際、外国の「元首」で日本語を完ぺきに操れるのは台湾の李登輝総統ただ一人である。
信長、秀吉、家康では……
こうした親日と反日の複雑な混じり合いは、もちろん、日本に限ったことではない。超大国のアメリカ、悠久の歴史を持つ中国などに対しては、世界の様々な国々がきわめてアンビバレント(愛憎共存)の感情を持っている。また、東南アジアや欧州など異なった民族や文化、歴史の絡む地域の中では、近隣諸国間の相互関係は非常に複雑だ。
日本の企業は円高を背景に急速にグローバル化を進めつつある。だが、企業のトップから実際に外地に赴任するミドルまで、世界の各国の多様な歴史、日本への微妙な感情といったものには、時として信じ難いほど無頓着である。語学学校に長時間通うよりも、その国・地域についての歴史の概説を読む方がずっとビジネスにプラス、ということも有り得る。
日米自動車摩擦で日本政府はWTOへの提訴という新手を編み出した。二国間交渉から多国間交渉へというその発想は間違っていないが、そのためには官民とも世界の様々な国に対する深い理解が不可欠だ。今の日本人の国際感覚で多国間外交に打って出たら事態は逆に悪化するような予感もする。
日本の経営者は歴史好きだといわれる。経営雑誌にも「戦国武将に学ぶ」といった類の企画がひんぱんに登場する。ただ、対象は日本人かせいぜい春秋戦国時代の中国人だ。信長、秀吉、家康の三者比較が悪いとは言わないが、そんなものは国際舞台では何の教養にもならない。
ビジネスマンは海外出張の際には現地の歴史書に目を通すのは当然、と考えねばならない。世界各国の歴史を知れば、自ずと日本の特殊性と普遍性が解ってくる。その作業を通じて、初めて日本型経営が真にグローバルなものになる。
このサイト上の各コンテンツの著作権は小林収メモリアルサイト制作グループもしくは、このサイトにコンテンツを提供していただいた各企業、各寄稿者に帰属します。無断転載はお断りいたします。
Copyright: 2002 Kobayashi Osamu Memorial, associated companies and writersAll Rights Reserved.
このサイトに関するお問い合わせはinfo@kobayashiosamu.net までお願いいたします。
Designed by BlueBeagle LLC
|